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(無題)

 投稿者:清田信長  投稿日:2017年11月24日(金)22時18分29秒
編集済
  最近の研究で本能寺の変の真実が少しずつだけども明らかになりつつあり
出来れば私が生きている間に全貌解明されたらいいなと切に願っております。

先日の英雄たちの決断の観応の擾乱の新事実には驚愕しました。
歴史はやはり面白い、今の政治家と違い本当にスケールの大きい人物が多いで
すよね

 
 

日本史の戦乱と平和

 投稿者:小林哲夫  投稿日:2016年 7月11日(月)20時07分20秒
  今般BS英雄の選択「政権誕生の地;足利尊氏」で先生のお話を見て、室町幕府について考えました。
久しぶりに私の素人歴史観を書いて見ましたので、お暇な時に読んでいただけたら光栄です。


日本史の戦乱と平和

日本史の大きな物語に挑戦します。
縄文時代から現代までを生産力説によって説明しようという試みです。
その大きな流れを、「戦乱と平和」という観点に焦点をあてて考察し、その現象を首都の東漸と絡めて説明する歴史観です。

1、生産力説による歴史観
九州に稲作が伝搬し、それが近畿地方を経て、東北に至る過程を稲作生産力の東漸と見て、これが政治の中心地(都・首都)の東漸(九州⇒近畿⇒関東)をもたらした、という見方です。
大きな目で見るとそうなのですが、鎌倉、室町、戦国、江戸の変遷に例外の動きがあるので、これを戦乱と言う要素を加えて説明します。

2、日本史二回の戦乱
第一回目は弥生時代の戦乱です、
これは九州地方に稲作が伝搬したために起こった現象です。
第二回目は戦国時代なのですが、この原因を平安時代に始まる東北地方への稲作定着によるものと見ます。
稲作は南方発祥の温暖地作物ですので、九州から近畿・関東への東漸は、自然な伝搬と言う言葉で表現できます。
しかし関東から北上するためには寒冷地に適合する品種改良が必要で、その伝搬には時間がかかりました。稲作定着以前の東北は続縄文と言われる状態でした。
しかし東北地方にも稲作生産力が定着した時に、弥生時代に九州で起こった戦乱の現象の二回目が起こった、と考えます。
まず関東で平将門の乱(935年)が起こります。
次に戦乱は北上して奥羽地方に至りますが、前九年・後三年の役(1051年)を経て藤原清衡が平泉に平和をもたらします。[1105年中尊寺]
このような関東以北の戦乱状態にもかかわらず、先進の近畿・西国は平和な時代を過ごしていたのですが、東の武力の影響が近畿にもおよび、平安末期の源平の戦いの時代を迎えます。

3、武力政権の発生
この戦いの性格について私は関東武士団の独立戦争と見ます。
頼朝が鎌倉に幕府を開いた(1192年)のは、関東独立を意味していますが、日本全体の首都として、鎌倉が機能したとは考えにくいと思います。先進の近畿・西国には、既存の公家・社寺勢力が温存されていて、関東武士団と日本を二分していた、と言うことです。
西国は律令体制、東国は武士政権と政治体制も違っていました。

しかしながら武力政治の力は徐々に西国にも浸透して、日本全国が均一な体制になりつつある時に鎌倉幕府が滅亡したので、西国を加えた全国を支配するために、都(室町幕府)は日本の地理的中心である京都にもどりました。
武力政権と言うものは、もともとは開発領主から出発したもので、地方豪族が権力を持つ分権的色彩を持っているものだったので、室町幕府の権力は弱体化し、ついには無力となって、地方豪族分立の戦国時代が到来したのでした。
日本全国が均一の豪族分立の状態になったために、ここに全国統一政権の可能性が出来て、信長・秀吉により統一事業が行われました。

家康が江戸幕府を開くころには、関東東北の生産力はさらに増大していたので、日本全体の経済力の中心地である江戸に首都を定めて、それが当然東京に引き継がれることになった、という物語でした。
 

内山さんへ

 投稿者:内山 大志  投稿日:2014年10月14日(火)00時34分6秒
  たまたま、内山源吾を検索して、たまたまこちらへ来ました。
内山源吾は、私の直系の祖先になり、戦国時代の方です。
実家に戦国時代の位牌があります。
室町時代と違うのであまり関係がないかもしれませんが、気になり投稿しました。

ちなみに、わたしも祖先のことをいろいろ知りたいと思っていますので、
情報をこちらこそ待っています。

掲示板というものがはじめてなので、
もしよかったら、直接メールください。
taishi@fujiyume.com

ご縁をありがとうございます!(^^)!
 

(無題)

 投稿者:内山  投稿日:2014年10月 2日(木)23時19分36秒
  懸仏を奉納した信義なる人物は もしかしたら平賀信義で信濃国佐久郡平賀城主平賀源信
又平賀源内の租であった人物なのかなと思っています

又越後の平賀は新津氏でした すみません

 

(無題)

 投稿者:内山  投稿日:2014年10月 2日(木)22時20分14秒
  たびたびすみません 名前のところが
?になってしまいました
この字は図の異体寺で口のなかの上の部分がムと言う字で下が面という字です

 

(無題)

 投稿者:内山  投稿日:2014年10月 2日(木)22時11分38秒
  訂正です内山園書ではなく内山?書です 失礼しました
また内山家が先祖代々奉仕している八幡神社に懸仏を至徳4年(1387年)に四郎兵衛尉信儀が奉納しております
 

内山家のルーツが知りたい

 投稿者:内山  投稿日:2014年10月 2日(木)21時12分50秒
  はじめまして
突然失礼します
静岡県浜松市天竜区横山に私の祖先が住んでおりまして
私の家の家系図に清和源氏義光4男盛義の後胤
竹内義治(内山源吾方)が正応5年(1292年)民間に下り
改めて内山貢 藤原義治と称す其後二男内山園書
藤原義信を以て当家の始祖とす
ということが書いてありました
もしかしたら竹内義治という人物が
秋葉神社1294年に来たという三尺坊の天狗となにか関係があるのか
(三尺坊が越後蔵王堂で修業をしたという伝説があって越後平賀を調べていたら竹内氏なる一族が出てきました)
また内山源吾という人物と同じ名前が
蓮桑名市蓮花寺字城850
連花山蓮花寺西城の城主となっているのを発見したのですが
内山源吾なる人物はどのような人物なのか
もし分かるようでしたら
教えてください
あと家の家紋は鷹の羽の家紋です私の父で第25代目となります
 

足利義満を見直す

 投稿者:小林哲夫  投稿日:2014年 2月14日(金)16時35分30秒
  もしや先生に読んでいただけるのではないか?と期待して、突然失礼ですが、最近考えたことを書かせていただきます。

NHK BS歴史館で足利義満を有能な政治家として見直すべきだ、という放送があり、私も同感しました。
義満は、自ら日本国王と称して、明国の朝貢国になったことで、従来から、逆賊だとか、裏切り者などと悪者にされてきました。
しかし最近はこれらの行為は合理的な判断に基づくもので、戦乱の時代の有能な政治家であった、という見直しが進んでいるということでした。


逆賊と言われるのは、天皇を差し置いて、国王を称したことを言い、天皇にとって代わるつもりがあった、つまり「謀反人」などと非難されてきたことを言います。

裏切り者というのは、それまで独立国であった日本を中国の属国(朝貢国)にした、という非難です。
これは義満の同時代からあった非難で、日本と中国との関係には、ずっとこの見方が付いて回っています。

中国という国の周辺国との関係は、いわゆる中華思想(華夷秩序)で、周辺国を野蛮国と看做して、朝貢させることを原則としてきました。
中国皇帝を上とし、周辺国に「王」を任命して、従属関係とすることを条件に貿易を許す、というシステムです。
このシステムでは貿易は、従属国に対する恩恵として行われ、中国にとっては持ち出しになるような形態であって、決して搾取関係では無かったことが、西洋の植民地主義と違う点でした。

義満は、王という下位の称号を我慢することによって、その有利な貿易関係の実利を得た、と再評価されているものです。
従来、義満が裏切り者とされたのは、中国への朝貢を日本としての屈辱と考えたためのものです。
古代(例;卑弥呼など)に始まり遣唐使に至る関係はすべてこの朝貢関係でした。
しかしその後、遣唐使を廃止したのは、やはりこの屈辱感が原因の一つのように思われます。
平清盛が、日宋貿易をしましたが、これは朝貢関係を誤魔化して行ったようで、公式貿易では無かったようです。
朝鮮やベトナムは、朝貢国になることによって、実際的な従属を強いられたことは知られていますが、義満の場合は、なんら実質的従属の例は無く、貿易の利益だけを享受しました。

さて私がここで取り上げたいのは、蒙古来襲のことです。

元(フビライ)が、国書で日本との貿易を申し出てきましたが、北条時宗は、これを朝貢国になれ!という要求だと思ったのだろうと言うことです。
日本人は中世以来、朝貢国になることを屈辱と思って来たのではないでしょうか?

時宗のこの朝貢観が、結局、元との戦争(1281年;蒙古来襲)を招いてしまったと考えます。

その約百年後(1402年)今度は日本(義満)から朝貢を申し出たのでした。

時宗の屈辱意識と義満の打算意識を比較して、私は文句なしに義満を評価します。

時宗がフビライの国書の「戦争はしたくないものです」と言う言葉を、元の「脅かし」と思った時宗を浅はかだと思います。それをそのまま教科書に書いている現代日本人も同じく浅はかだ、と思っています。

この現象は、尖閣領土問題について、棚上げ合意はあった、とか無かったとか議論している、日本人の浅はかさに通じていると思ったので、ここで書きました。

こういう問題を議論するときにすぐに、「中国になめられるな!」などという、次元の低い感情を持ち出すべきでは無く、「戦争にしないためにはどうしたらよいか?」という観点で考えるべきだと思います。
 

沖縄戦終結は蒙古襲来弘安の役

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 6月10日(月)16時37分8秒
  沖縄戦終結は蒙古襲来弘安の役

http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/02/p001.html#page12

第二次世界大戦は、最初から最後まで蒙古襲来の「お祭り騒ぎ」。

( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0102/p006.html )
 

記念カキコです

 投稿者:G-tea(75)  投稿日:2013年 6月 8日(土)23時32分26秒
  AKBの総選挙について生放送で討論番組やってるという愉快なニュースを見て、
面白がってどんな人が出てるのか見てみたわけです。
そうしたらなんと、中高の大先輩がいらっしゃるではありませんか!
いやあ、世の中狭いですね。

というわけで、記念に書き込ませていただきました。
先輩の益々のご活躍をお祈りしております!
 

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